「うちの子、鼻でいろんなもの嗅いでて、かわいいなぁ」

そう思って眺めていたあの仕草の背景に、思っていたよりずっと大きな世界が広がっていた、という話を書きます。


わんにょむが、私の手をいつも以上に嗅いだ朝

ある朝、ちょっと体調が悪くて、頭痛がしていました。

いつものようにわんにょむのごはんを準備して、しゃがんで器を置いたとき、わんにょむが私の手をいつもより長く嗅いでいるのに気づきました。

ふだんは「ごはんだ!」と尻尾を振って器に駆け寄るんですが、その朝はちょっと違いました。 器の前に座って、私の手のひらをくんくんと嗅ぎ続けて、それから不思議そうにこちらを見上げてくる。

(あ、もしかして気づいてる?)

そう思って、ちょっと笑いました。 気のせいかもしれない。でも、体調が悪い日に限ってこういうことがある、というのは、たぶん私の気のせいだけじゃない気がする。

カフェで働いている飼い主さんからも、「私が熱出してる日、うちの子なんか敏感なんですよ」という話を、何度か聞きました。

犬の鼻って、本当のところ、どこまで読み取っているんだろう。


「人間より優れている」を、なんとなく知ってはいたけれど

「犬の嗅覚は人間の1万倍」みたいな話は、よくテレビでも聞きます。 警察犬、麻薬探知犬、がん探知犬。 そういう特別な訓練を受けた犬たちが、すごい能力を持っていることは知っている。

でも、それは「訓練された特別な犬の話」だと思っていました。 うちのわんにょむが散歩中に電柱を嗅いだり、私の手を嗅いだりするのは、ただの「かわいい癖」だと。

ところが、わんにょむが私の手をくんくんしていたあの朝、ちょっと違う見方が浮かびました。 うちの子も、鼻を使って何かを読み取っているのかもしれない。 それが何なのか、私には見えていないだけかもしれない。

その夜、検索バーに「犬 嗅覚 人間 病気 検知」と打ち込みました。


「犬は人の体の中の変化まで嗅ぎ分けている」と書かれた総説

たどり着いたのは、2021年に出た、犬の嗅覚に関する大きな総説でした。

読み進めるうちに、私の中の「ただかわいい癖」がどんどん書き換わっていきました。

総説には、こう書かれていました。

犬の嗅覚は、人間よりも遥かに優れており、専門の機器で検出できない濃度の化学物質まで識別できる。 訓練された犬は、がん、糖尿病、てんかん発作、感染症(COVID-19を含む)など、人間の体内の変化を匂いで検出することができる。

がん。糖尿病。てんかん。COVID-19。

これらは、訓練された犬ができることとして書かれていました。 特別な能力じゃなくて、犬の鼻が本来持っている能力を、訓練で「使えるように」しているだけ。

そして、もう一段深い発見がありました。

犬は嗅ぐとき、最初に右の鼻先を使う傾向がある。 知らない・脅威となる匂いの場合は右鼻のまま、見慣れた・安全な匂いの場合は左鼻に切り替える。 これは、右脳が新規情報を処理し、左脳が既知のものに対する反応を担うという脳の機能分担に対応している。

——犬の嗅ぎ方そのものが、すでに脳の処理を反映していた。 ただ嗅いでいるんじゃなくて、「いま、どっち側で処理すべきか」をリアルタイムで判断していた。

うちのわんにょむが、私の手のひらを長く嗅いでいたあの朝。 最初は右鼻だったかもしれない(「何かいつもと違う?」)。 途中で左鼻に切り替えたかもしれない(「あ、いつものママの匂いだ」)。

私には全部「かわいい」しか見えていなかったけど、わんにょむの体の中では、たぶんすごく繊細な判断が動いていた。


「特別な犬」じゃなくても、たぶん感じ取っている

研究を読んで、ちょっとはっとしたのは、ここでした。

「訓練された犬」が病気を検知できるという話を、私はずっと「能力の差」として読んでいました。 特別な犬がいて、特別な訓練を受けたから、できる。 うちの普通のわんにょむには関係ない、と。

でも、研究には「すべての犬がその能力を生まれつき持っている」と書いてありました。 訓練するかしないかの違いは、その能力を「人間がわかる形で表現させるかどうか」の違いだけ。

うちのわんにょむも、私の体調の変化を、たぶん毎日のように嗅ぎ取っている。 ただ、それを「警報音」で教えてくれるわけじゃないから、私は気づいていないだけ。

そう思うと、わんにょむが私の手を長く嗅ぐとき、足元から見上げてくる目の意味が、ちょっと違って見えるようになりました。


わんにょむの鼻先を、もう「かわいい」だけで見なくなった

それから、わんにょむが何かをじっくり嗅ぐとき、私はちょっと意識して見るようになりました。

散歩中の電柱、街路樹、葉っぱ。 それは、わんにょむにとって「世界の情報」を読む時間。 他の犬が通ったか、その犬がどんな状態だったか、何時間前のことか。 それを、たぶん全部読み取っている。

家の中で私の手を嗅ぐ時間。 それは、たぶん「ママ、今日はどんな日だった?」を確かめる時間。 体調、疲労、感情の起伏。 読み取っているけど、わんにょむは黙って隣に寄り添うだけ。

そう思うと、わんにょむの鼻先が触れる瞬間が、これまでよりずっと深く感じられるようになりました。

「かわいい癖」で片付けてしまっていた行動の一つひとつに、たぶんちゃんと意味があった。 私が見ていないだけで、わんにょむは私のことを、たぶん私の何倍も読んでいる。

それを知ってから、ちょっとだけ、わんにょむに対して恥ずかしくない自分でいたい、と思うようになりました。


あの子の鼻先に、今日も全部知られている

カフェに来てくれる飼い主さんで、「うちの子、私が病気の日に異常に寄ってくるんですよ」と話す方には、最近こうお伝えしています。

「気のせいじゃなくて、本当に体の中の変化を嗅ぎ取ってるみたいですよ」と。

驚いた顔をされる方が多いです。 「えっそうなんですか」「特別な犬じゃなくても?」と。

私もずっと「うちの子は普通の犬だから関係ない」と思ってきたから、その表情がよくわかります。

うちのわんにょむは、今夜も私の足元で寝ています。 私が何時に起きたか、何を食べたか、どこに行ってきたか、たぶん全部嗅いで知っている。

それは、ちょっと不思議な感じです。 人間に対しては「全部知られたら困る」と思うかもしれない。 でも、わんにょむになら、たぶん何を知られても大丈夫。

それが、犬と暮らすことの静かなあたたかさなのかもしれない、と今は思っています。

明日も、わんにょむが私の手を嗅ぎに来たら、ちゃんと差し出そうと思います。 私の今日を、ぜんぶ読んでもらうために。