「うちの子、ちょっと鈍くさいんですよ」

笑いながらそう話していた時期がありました。

ある研究を読んで、その「鈍くさい」が違う意味を持って見えてきた日の話です。


おもちゃの中の一粒を、ずっと取り出せなかったわんにょむ

知育おもちゃをわんにょむに買ってあげたことがあります。

蓋の下に小さなおやつを隠して、犬が鼻先や前足で動かして取り出す、というタイプ。 SNSで「うちの子は3分でクリア」みたいな動画をたくさん見て、わくわくして用意したんです。

わんにょむは、おもちゃを少し嗅ぎました。 鼻先でちょん、と一度押した。 そして、私のほうを振り向きました。

「取って」という顔をしているんです。

何度か励ましました。「ほら、自分でやってごらん」「がんばれ」「楽しいよ」。 でもわんにょむは、おもちゃより私の顔ばかり見ている。

5分経って、結局私が蓋を開けてあげました。 すぐに尻尾を振りながらおやつを食べる姿を見て、(うちの子、ちょっとパズルとか苦手なのかも)と思ったんです。

その日から、知育系のおもちゃを買うのをやめました。 「うちの子は鈍くさい子だから、シンプルなのが合っているんだ」と、自分を納得させて。


SNSで「3分でクリア」する犬たちを見ながら、ちょっと寂しかった

ペットインフルエンサーのアカウントを見ていると、いろんな犬が知育おもちゃを器用に解いていきます。

蓋を鼻でずらす。レバーを前足で押す。引き出しを開ける。 コメント欄には「すごい!」「うちの子もできた!」と並んでいる。

それを見ながら、(うちの子はどうしてできないんだろう)と思っていました。

しつけが足りないのかな。 おやつのモチベーションが弱いのかな。 それとも、うちの子はそういう「考えるタイプ」じゃないのかな。

「賢い犬」と「賢くない犬」がいて、わんにょむは後者なんだろうな、と思い込みかけていました。

でも、よく考えてみると、家の中での観察ではちがう姿もあるんです。

私がスマホを落としたら、拾う場所を覚えている。 散歩の途中で迷うと、近所のいつもの道を選んで歩く。 カフェで気配を読んで、お客さまが帰る前にしっぽを振り始める。

「賢くないわけじゃない」と、私は知っていました。 でも、おもちゃの前ではいつも、こっちを見て助けを待つ。

それがどうしてなのか、ずっとわからなかったんです。

(うちの子は、考えるより甘えるタイプなんだろうな)

そう片付けてしまっていた問いでした。


28組の犬と飼い主を観察した、ある研究

ある夜、「犬 問題解決 飼い主 顔を見る」と検索バーに打ち込みました。

たどり着いたのは、1997年に出た、ちょっと古い研究の話でした。 (古いとは思ったのですが、続きの研究で繰り返し確認されている、定番に近い知見でした)

研究では、28組の犬と飼い主のペアを集めて、簡単な問題解決テストをやってもらったそうです。 犬たちは2グループに分けられました。

「コンパニオンとして暮らしている犬」と、「使役(ワーキング)として一緒に活動している犬」。 飼い主との関係性が、犬の問題解決のパフォーマンスにどう影響するかを見たんです。

結果は、私の予想と逆でした。

「コンパニオンとして強い愛着がある関係の犬」のほうが、問題解決のパフォーマンスが低かった

なんで、と読みながら思いました。 仲がいいほうが、頭も柔らかく動きそうなのに。

研究者の方たちが書いていた解釈が、ハッとさせるものでした。

犬の問題解決能力が低いのは、認知能力の問題ではなく、飼い主との強い愛着関係が、犬が課題を自力で完了することを妨げているからだ。

つまり、こういうことなんだそうです。

愛着の深い犬は、困ったときにまず「飼い主を見る」。 それは、認知が鈍いからではなく、「この人に頼ったほうが早い」と学習しているから。 飼い主と深い関係を結ぶほど、「助けを求める」という戦略を選びやすくなる。

——うちの子がおもちゃの前で私を振り向いていたのは、鈍くさいからじゃなかったんです。

私と深くつながっているから、そうしていた。

しばらく画面を見つめていました。 寝室の方でいびきをかいているわんにょむを思い浮かべて、なんだか胸の奥が温かくなりました。


知育おもちゃの前で、もう「がんばれ」と言わなくなった

次の日の朝、しまっていた知育おもちゃをもう一度出してみました。

おやつを仕込んで、わんにょむの前に置く。 やっぱり、すぐに私の顔を見上げてくる。

前は「ほら、自分でやってごらん」と励ましていました。 今は、ちょっと違う声をかけるようになりました。

「うん、私はここにいるよ。安心して、ちょっとだけやってみてごらん」

そして、わんにょむが鼻先でおもちゃに触ったら、すぐに「いいね」と小さく声をかける。 振り返ってきたら、「うん、見てるよ」と頷く。

それを2、3日続けると、わんにょむは少しずつ、私の顔を見る回数が減っていきました。 鼻でつついて、蓋がほんの少しズレた。それでまた振り返るけど、私が頷くと、もう一度自分でつつく。

完全にクリアできるようにはなっていません。 でも、自分でやろうとする時間が、少しずつ増えました。

問題が解けない原因は「能力」じゃなくて、「私との関係性が、こうやって動いてた」ということ。 それがわかってから、わんにょむの前で「がんばれ」と急かす言葉を、私は使わなくなりました。

「私はここにいるよ」とそばにいる感覚を渡してあげることのほうが、たぶんこの子の問題解決の練習になっていた。 そう思うと、今までSNSで見ていた「3分でクリア」とは、ちょっと違う物差しでこの子を見られるようになりました。


「鈍くさい」が、「あなたを信じている」だった

カフェに来てくれる飼い主さんで、似たような悩みを話してくれる方がいます。 「うちの子、知育系できないんですよ」「自分でやらないんですよね」と笑いながら。

最近は、私はこう返すようになりました。

「あの行動、能力じゃなくて、飼い主さんを信頼してる証拠かもしれないですよ」

そう言うと、その方たちの目が少し変わります。 「え、そうなんですか」「うちの子、賢くなかったわけじゃないのかな」と、ちょっとほっとした顔をされる。

私もずっとそうだったから、その表情が、わかるんです。

わんにょむは今日も、晩ごはんの前にもう一度知育おもちゃに挑戦中です。 半分くらい開けると、こっちを見る。 私は頷く。 わんにょむがもう一度つつく。

その繰り返しのなかに、たぶんこの子の「賢さ」と「私への信頼」が両方含まれているんだと、今は思っています。

明日も、おもちゃの前で振り返るあの顔を、もう「鈍くさい」と思わずに見ていられそうです。