朝のカフェに来てくれる常連のお客さんが、ある日カウンターでぽつりとこう言いました。

「うちのお隣さんちのワンちゃん、最近ずっと吠えてるの。」

聞けば、そのお家のワンちゃん、もうずいぶん前から吠えに悩んでいるそうで、いろんな本を読んで、いろんな方法を試したらしい。

「最初は叱ってみたんだって。それでも吠える。じゃあ無視しようって言われて、無視した。」

そう言いながら、その方は少し困ったように笑いました。

「それでもね、ぜんぜん治らないの。むしろ、前よりひどくなってるって。」

カウンター越しに、私はうなずきながら聞いていました。 (叱っても、無視しても、ひどくなる——って、なんなんだろう。)

うちのわんにょむも、インターホンが鳴ると一瞬で立ち上がって、玄関に向かって吠えます。 かわいいんだけど、宅配の人が来るたびこれだと、たしかに大変。 人ごとじゃなかったんです。


「叱る」も「無視する」も、答えじゃなかったかもしれない

その方が話してくれたお隣さんの話は、私の中でずっと引っかかっていました。

叱る → 効かない。 無視する → 効かない。 そうなったら、あとは何があるんだろう。

私自身、わんにょむがインターホンで吠えるたびに「シーッ」と言ったり、わざと聞こえないふりをしてみたり、いろいろやっていました。 でも、たいして変わらない。

たぶん、似たような経験のある方、多いんじゃないかと思います。

(それなら、もう犬の性格なのかな。) (もう吠えるものとして付き合っていくしかないのかな。)

そう思いかけていました。

でも、お隣さんが「むしろひどくなった」と話していた、その言葉が頭から離れなかったんです。 ひどくなるって、どういうこと? 何かが間違っているなら、それは何なんだろう。

カフェを閉めて家に帰ったその夜、スマホで「犬の吠え 治らない 理由」と打ち込みました。


ある研究を見つけて、思わず(えっ)と声が出た

検索の波を漂っていたら、2022年のある研究にたどり着きました。

施設で暮らす犬たちを対象に、人が通るたびに犬にトリーツを投げるという、ただそれだけのことを10日間続けた研究です。

最初の5日は何も特別なことをしない「ふつうの日」。 そのあとの10日は、人がそのワードを通るたびに、犬の行動に関係なく、ただトリーツを犬に投げる。 吠えていてもトリーツ。静かでもトリーツ。「えらいから」じゃなくて、人が通ったら、必ず。

学者さんじゃない私には少しむずかしい用語もあったんですが、読み終えて、思わず(えっ)と声が出ました。

吠える犬の数が減り、ひとつの吠えの長さも短くなった。最大の音量も下がっていた。

特に午後にいちばん変化が出ていたそうです。

ここで(あれ?)と思いました。 「やめさせる」ための叱りも、無視もしていない。 ただ、人が通ったらトリーツが落ちてくる、それだけ。 なのに、吠えが減っていく。

書かれていた理由を読んで、ようやく腑に落ちました。

犬にとって「人がワードを通る」は、もともと不安や緊張の合図だった。 怖いから吠える。落ち着かないから吠える。 だから、その**「人=不安」の意味を、「人=おやつ落ちてくる人」に書き換えてあげる**。 意味が変わるから、吠える理由が薄くなる。

吠えを止めようとしていたんじゃなくて、吠えるきっかけになっていた気持ちのほうを、ほどいてあげていた。

お隣さんの「叱っても無視しても効かなかった」が、ようやく言葉になった気がしました。 あれは、犬がわざと吠えていたんじゃなくて、人の通る音がそのまま「不安」と結びついてしまっていたから、何をしても止まらなかった。


翌朝、ラテを淹れる前にその話をした

翌朝、その常連の方がカウンターに来た瞬間、私はラテを淹れる前に切り出していました。

「あの吠えの話、調べてみたんですけど」

私なりに噛み砕いた話を伝えました。 叱っても、無視しても、犬の中の「人=不安」は変わらない。 だから、まずそこを書き換えてあげることが、いちばん近道かもしれないこと。

「おもしろい。お隣さんに伝えてみる」と、その方は言ってくれました。

その日の夕方、家に帰ってから、私はわんにょむを呼びました。 インターホンの「ピンポーン」を、自分のスマホでこっそり鳴らしてみる。 わんにょむは立ち上がって、玄関の方を見る。 そのタイミングで、ササッとちっちゃなおやつを、玄関の前の床に転がしました。

わんにょむは「ん?」という顔をして、おやつをかじって、また玄関を見て、また私を見て。

それを毎日、宅配が来るたびに、ちょっとずつ。 1日でわんにょむが変わったわけじゃありません。 でも10日くらいすると、インターホンの音 → 玄関ダッシュ → 振り返り(おやつ?)という順番に、少し変わってきた気がしました。

吠える前に、こちらを見るんです。

「やめさせる」ことに必死だったときには、起きなかった反応でした。


あの子が吠えるのは、あの子のせいじゃなかった

「ちゃんとしつけないから吠えるのよ」と、たぶん言う人もいると思います。 私も以前はちょっとだけ、そう思っていた節がありました。

でも、調べてみてわかったのは、吠えはほとんどの場合、犬が悪いんじゃないんです。

その音が、その状況が、その瞬間が、犬にとってずっと「不安」とくっついたままだった。 それを誰も書き換えてあげられなかったから、吠えるしかなかった。

そして、書き換えるための方法は、思っていたよりずっと優しいものでした。 叱る必要はなかった。 我慢比べみたいに無視する必要もなかった。

「あなたが通っても、こわくないよ」を、おやつ1個でそっと伝える。 それで体は、ちゃんと応えてくれる。

これを読んで、「お隣さんちのワンちゃんも、たぶん大丈夫」と私は素直に思いました。 うちのわんにょむも、まだまだ変化の途中。 でも、もう「叱るしかない」とは思わなくなりました。


今日も、ピンポーンと、ひとかけのおやつ。

明日の朝も、たぶんインターホンは鳴ります。 わんにょむは、たぶん一瞬は立ち上がります。

でも、私の手はもうポケットの中で、ちっちゃなおやつを握っているはず。

吠えそうな瞬間に「ダメ」と言うんじゃなくて、 吠える前の半秒に、別の意味をそっと差し込んであげる。

それだけのこと、と、それくらいで、ちょうどいい

お隣さんのワンちゃんの吠えが、いつか少し穏やかになる日が来ますように、と、 今日もカウンター越しに、私は静かに思っています。